愛媛異聞|創作
松山市郊外の県道沿いに、一本の短い目撃談が残されている。
目撃されたのは、会社名も行先も表示されていない、真っ黒なバス。
時刻は、その日の最終便が通り過ぎたあとだった。
バスは停留所の前で静かに停まり、路線バスと同じようにドアを開けた。
しかし、目撃者は乗らなかった。
乗っていれば、どこへ連れていかれたのか。
そもそも、あれは本当にバスだったのだろうか。
最終便を逃した夜
目撃したのは、松山市内に住む男性だった。
その夜、男性は市内中心部での用事を終え、バスで帰宅する予定だった。しかし、停留所へ着いたときには、最終便が出たあとだった。
時刻表を確認しても、次の便はない。
男性は家族に連絡し、車で迎えに来てもらうことにした。
雨は降っていなかった。
風もほとんどなかった。
男性は停留所のベンチには座らず、道路脇でスマートフォンを見ながら迎えを待っていた。
しばらくして、遠くに二つのライトが見えた。
家族の車が来たのだと思った。
しかし、近づいてきたのは大型のバスだった。
行先表示のない黒いバス
最初に違和感を覚えたのは、車体の色だった。
バスは全体が黒かった。
濃紺や深緑ではない。街灯の下を通過したときも、車体は光を吸い込むような黒に見えたという。
側面には会社名もロゴもない。
広告や模様もない。
前方の行先表示は消えており、系統番号も確認できなかった。
男性は、営業を終えた回送車だと思った。
ところが、バスは速度を落とし、男性が立っている停留所へ近づいてきた。
そして、いつもの路線バスと同じ位置に停車した。
空気の抜けるような音がして、前方のドアが開いた。
誰もこちらを見なかった
車内の照明はついていた。
運転席には、人がいた。
暗くて顔までは見えなかったが、運転手らしき人物は正面を向いたまま動かなかった。
車内には数人の乗客がいたという。
一番前の席。
中央付近の席。
一番後ろの席。
互いに離れて座り、全員が顔を伏せていた。
眠っているようにも見えた。
奇妙だったのは、ドアが開いても、誰一人として男性を見なかったことだ。
通常、停留所でドアが開けば、乗客の誰かが外を見る。新しく乗ってくる人へ一瞬だけ視線を向けることもある。
しかし、そのバスでは何も起こらなかった。
運転手も、乗客も、男性がそこにいないかのように動かなかった。
車内放送も流れない。
運転手からの声かけもない。
ただ、ドアだけが開いていた。
男性は乗らなかった
男性は、バスに近づかなかった。
すでに最終便は終わっている。
行先も分からない。
家族もこちらへ向かっている。
乗る理由はなかった。
それでも、ドアが開いた瞬間、なぜか一歩だけ前へ出そうになったという。
普段から利用している停留所にバスが来た。
ドアが開いた。
ただそれだけの動作が、「乗らなければならない」という感覚を生んだのかもしれない。
男性が後ろへ下がると、しばらくしてドアが閉まった。
バスはゆっくりと発車し、そのまま暗い県道を走り去った。
後部の行先表示も消えていた。
ナンバープレートは見えなかったという。
回送車か、送迎バスか
この話を聞いた編集部では、黒いバスの正体について考えてみた。
最も可能性が高いのは、営業を終えた回送車だろう。
夜間であれば、濃い色の車体が黒く見えることもある。車内に見えた人影も、座席やカーテンの見間違いだった可能性がある。
ホテル、病院、工場などが運行する送迎バスも考えられる。
貸切バスや、整備のために移動していた車両だったのかもしれない。
黒い車体そのものは、存在しても不思議ではない。
ただし、どの可能性にも一つだけ説明できない点が残る。
なぜ、そのバスは通常の停留所に停まり、男性の前でドアを開けたのか。
回送車なら、乗客を乗せる必要はない。
送迎バスなら、無関係な停留所に停まる理由がない。
男性が別の場所で待つ関係者に見えた可能性もある。しかし、運転手は男性を確認する様子すら見せなかったという。
編集部でも現地を確認した
後日、編集部でも目撃談と似た環境のバス停を訪れた。
特定の事業者や停留所と結びつくことを避けるため、詳しい場所は記載しない。
最終便が通過したあとも、しばらく歩道から道路を確認した。
通過したのは数台の乗用車とトラック。
途中、一台のワゴン車が速度を落としたが、そのまま走り去った。
黒いバスは現れなかった。
遠くからバスのように見える車両もなかった。
日付が変わる頃、家族を迎えに来たと思われる乗用車が停留所の近くに停まり、若い男性を乗せて走り去った。
その夜、バス停に停車したのは、その一台だけだった。
黒いバスはどこへ向かうのか
目撃談を裏付ける写真や映像は残っていない。
車体の番号も、ナンバープレートも、運行会社も分からない。
編集部で確認した夜にも、黒いバスは現れなかった。
男性が夜道で別の車両を見間違えた可能性は、十分にある。
最終便を逃した焦りや疲れが、記憶に影響したとも考えられる。
それでも男性は、バスが目の前で停車し、ドアを開けたことだけは間違いないと話している。
乗らなかったため、その先のことは分からない。
黒いバスがどこから来たのか。
車内にいた人々は誰だったのか。
そして、行先も分からないバスに乗った人たちは、どこで降りるつもりだったのだろう。
※「愛媛異聞」は、愛媛を舞台にした創作シリーズです。本記事はフィクションであり、実在する交通事業者、車両、路線および人物とは関係ありません。



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